【資料DL可】安保法制勉強会レポート
- 2015.07.29 Wednesday
- 12:06
少し前になってしまいますが、7月23日に学内で今回の安保法案に関する勉強会が行われました。
「中央大学9条の会」が中心となって企画された勉強会で、当ブログの「呼びかけ」と直接的に関わるものではありませんが、登壇者のご意向により当日配布された資料をいただけましたので、ここにレポートという形で共有したいと思います。
自由にダウンロードしてご利用いただけるようにしておりますので、どうぞ、ご活用ください。
なお、ご利用は個人的な使用の範囲にとどめていただけるようお願いいたします。勉強会での配布やメディアでのご利用をお考えの際には、当ブログ管理者までご連絡ください。また、以下のレポートとコメントは当ブログ管理者の個人的な感想・見解であり、必ずしも登壇者の見解と一致するものではありません。
勉強会の登壇者は以下の通り(発表順、敬称略)
手前から、中西又三教授、畑尻剛教授、西海真樹教授、平山令二教授、北彰教授(司会)
トップバッターは中西教授。
今回提出されている法案の構造をまずは簡単に整理し、そこから見えてくる問題点を丁寧に解説していました。
たとえば、特に一括法で多用される「平和」という呼称は法案の内容からすると(控えめに言っても)誤解を招くものであり、法案内容に則した呼称を心がけるべきであるとの指摘は非常に納得のいくものでした。加えて、一括法の順番に関しても問題点が指摘されました。私個人としては、呼称と内容のズレや不自然な並びにはにいろいろと作成者の意図を読み取りたくもなってしまいます。
特に印象に残ったのはPKO法改正法の整理でした。何が変えられようとしていて、それによって何が起り得るのか、つぶさに説明がなされ、大変勉強になりました。
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCydnVlWTRDVFdacFU/view?usp=sharing
次に発表されたのは、畑尻教授
憲法学の立場から、今回の法案にいたる議論のずさんさ、とくに判例を用いる際の「不作法」を強く批判していたのが印象的でした。
まず最初に「なぜ今回、こんなに憲法学者が怒っているのか」と問いかけ、それを「立憲主義の無視」と「憲法学の方法論の無視」の二点において解説。とりわけ後者に力点が置かれていると感じました。
集団的自衛権の可否をめぐって「砂川事件」の判例が集団的自衛権行使容認の根拠とされる議論があるわけですが、その議論の問題点が「判例使用の作法」の点から明快に批判されていました。
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCyRm0xN1I2eFk5cjA/view?usp=sharing
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCySWFRRVJiLWxnb1E/view?usp=sharing
三番目の発表者は、西海教授
国際法学の研究者の立場から、そもそも集団的自衛権とは何か、それはどの様に行使されてきたのか、そしてその根本的な問題点は何か、が詳らかにされました。
集団的自衛権の可否に関する議論は広くなされているわけですが、そもそもそれがどういった経緯で成立し、行使されてきており、そこから導かれる問題点として何が挙げられるのか、という根本的な議論はあまり見られないように思います。そういった意味で非常に意義深いご報告だったと思います。
特に印象的だったのは、研究者として言えることと一市民として言わなければならないことをはっきりと区別したうえで議論を進めていた点でした。この両者がちゃんとかみ合うかどうかというのは、現在の日本の状況に対峙する大学人としては決定的に重要な点であろうと、私は考えています。
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCybEFPeHZ1bWRLSmc/view?usp=sharing
最後の登壇者は、平山教授
最後の登壇者であり時間的な制限からか、ご用意されたであろう議論を十全に展開できなかったであろう点が非常に悔やまれますが、文学者の立場から今回の安保法制に限らず、戦争や闘うということがどういうことなのかを個人的な体験や学生の実際の言葉などから浮き彫りにしていらしたのが印象的でした。わたし(当ブログ管理者)が文学界隈に関わっていることもあって、非常に興味深いものでした。人文学の立場から何を考えることができるのか、何を発信できるのか、改めて考えさせられました。
最後に、平山先生のお書きになった詞が大田先生によって朗読されました。
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCyTnBSbXVWek9pZ2s/view?usp=sharing
このあと、短い休憩を挟んで質疑応答、となりましたが私は個人的事情で退散してしまいました。
以上、粗雑なものではありますが、勉強会のレポートでした。
ブログの内容や資料の利用などにつきましては以下のアドレスにご連絡ください。
ryotanishi24"*"gmail.com (*=@)
「中央大学9条の会」が中心となって企画された勉強会で、当ブログの「呼びかけ」と直接的に関わるものではありませんが、登壇者のご意向により当日配布された資料をいただけましたので、ここにレポートという形で共有したいと思います。
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なお、ご利用は個人的な使用の範囲にとどめていただけるようお願いいたします。勉強会での配布やメディアでのご利用をお考えの際には、当ブログ管理者までご連絡ください。また、以下のレポートとコメントは当ブログ管理者の個人的な感想・見解であり、必ずしも登壇者の見解と一致するものではありません。
勉強会の登壇者は以下の通り(発表順、敬称略)

トップバッターは中西教授。

たとえば、特に一括法で多用される「平和」という呼称は法案の内容からすると(控えめに言っても)誤解を招くものであり、法案内容に則した呼称を心がけるべきであるとの指摘は非常に納得のいくものでした。加えて、一括法の順番に関しても問題点が指摘されました。私個人としては、呼称と内容のズレや不自然な並びにはにいろいろと作成者の意図を読み取りたくもなってしまいます。
特に印象に残ったのはPKO法改正法の整理でした。何が変えられようとしていて、それによって何が起り得るのか、つぶさに説明がなされ、大変勉強になりました。
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCydnVlWTRDVFdacFU/view?usp=sharing
次に発表されたのは、畑尻教授

まず最初に「なぜ今回、こんなに憲法学者が怒っているのか」と問いかけ、それを「立憲主義の無視」と「憲法学の方法論の無視」の二点において解説。とりわけ後者に力点が置かれていると感じました。
集団的自衛権の可否をめぐって「砂川事件」の判例が集団的自衛権行使容認の根拠とされる議論があるわけですが、その議論の問題点が「判例使用の作法」の点から明快に批判されていました。
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCyRm0xN1I2eFk5cjA/view?usp=sharing
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCySWFRRVJiLWxnb1E/view?usp=sharing
三番目の発表者は、西海教授

集団的自衛権の可否に関する議論は広くなされているわけですが、そもそもそれがどういった経緯で成立し、行使されてきており、そこから導かれる問題点として何が挙げられるのか、という根本的な議論はあまり見られないように思います。そういった意味で非常に意義深いご報告だったと思います。
特に印象的だったのは、研究者として言えることと一市民として言わなければならないことをはっきりと区別したうえで議論を進めていた点でした。この両者がちゃんとかみ合うかどうかというのは、現在の日本の状況に対峙する大学人としては決定的に重要な点であろうと、私は考えています。
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCybEFPeHZ1bWRLSmc/view?usp=sharing
最後の登壇者は、平山教授

最後に、平山先生のお書きになった詞が大田先生によって朗読されました。
https://drive.google.com/file/d/0B4dURImsjGCyTnBSbXVWek9pZ2s/view?usp=sharing
このあと、短い休憩を挟んで質疑応答、となりましたが私は個人的事情で退散してしまいました。
以上、粗雑なものではありますが、勉強会のレポートでした。
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